旅行というか大学の授業で行ったんですけどね。

ユネスコやJICAの仕事に興味ある学生の為の授業。

そろそろ手短な日記にしてみます。





そもそもこの授業、大学の非常勤講師で日本ユネスコ協会理事の

とっても偉い某先生が引率してくれるという有難い授業なのです。





その先生がまた何とも親切な方で、まるで水戸黄門みたいでした。





文部科学省を経て国連で働き、

現在は教授職と国連のアドバイザーを兼ねているそうです。



先生に国連のパスポートを見せてもらいました。

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これがあると北朝鮮やアフガニスタンにも楽に入れちゃうのです。


しかもビザ代は世界全国で無料!

うらやましいですねー。













さて旅行のことに話を戻します。


成田空港11時頃に出ました。


インドへは直行便ではなく、クアラルンプールで乗り継ぎです。




途中、機内食が出たのですが、

まさかの機内食で一人腹を壊しました。









・・・えっ?機内食って日本で作ってるんじゃないの?


一体インドに行ったらどうなってしまうのかと心配。











マレーシアのクアラルンプール国際空港は

「これぞ国の玄関」といった感じでご立派でした。

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星空を模したような天井。


まあ立派な分、空港内が広くて移動が大変、











夜の9時頃、ようやくインドのムンバイ(ボンベイ)に到着。

ながーいフライトでしたわ。





しかしここでトラブル発生。


なんと荷物が届いておらず、クアラルンプールに置き去りになっているらしい。


困ったなーと思いつつも明日からは陸路でゴカックという辺地を視察するので


航空会社にたのんでゴカックまで届けてもらうよう交渉。


というかこの交渉が結構手こずりました。




空港の職員に「荷物が届いていない」と言っても


「私に言われても知らない」とか皆それぞれに言うことがバラバラ。



しかも荷物が届いていないのは私だけじゃないらしく、


トラブルカウンターには人の列が。マレーシア航空は適当だなぁ・・・。











3日間、服や衛生用品が届かないのは困りますが、

現地で調達できるし、荷物が軽くて済むと前向きに考えることにしました。











この日はインターコンチネンタルホテルに泊まり、

翌朝チャトルバティーシワジー空港からゴアに飛びます。




さらにゴアから専用バスで6時間かけてカンナラ州ゴカック村へ。



朝はホテルでご飯(洋食)、昼は機内食だったため、

この移動途中の夕ご飯が実質初のインド料理でした。

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「これが本場のカレーかぁ」などと思いながら食べるのですが

やはり日本で食べるカレーの方が美味しいですね。


だってそりゃ日本人好みの味になってるわけだし。

インドのカレーは水っぽく、味が薄いか、濃くて辛いかの両極。








ちなみにインド人は美人が多いとの噂でしたが、

インド人女性はものすごくスリムで美人か、非常に肥えているかの両極端でした。











その後現地NGOやユネスコ、JICAのオフィスを視察などしましたが、

説明は省きます。

今は真面目な話を書く気力がありません。














というか着替えのない私は現地でTシャツを調達したんですね。


で、一回着て洗濯をしたのですが、


次に着たら、何かヘソの辺りに穴開いてるわけですよ。

Tシャツの真ん中辺りが。





まぁ・・・


「インドだし、初めから穴が開いててもそんなに大したことじゃあないだろう」


と思ったのですが






よく見ると肩とかワキ腹付近の生地にも小さな穴が!








おおっ!?


これは初めからじゃない!!


そう気づいてしまいました。









これは・・・洗濯をしたから穴が開いたんだ!








そんで自分でTシャツいじってたら、


ますます服の穴が広がったり


さらに新たな穴が生まれたりしてくるわけですよ!!

服が、服が、どんどん穴だらけのボロ切れと化していくではないですか。

こ・・・これがインドクオリティなのか!?










やばい!


このままでは公衆の面前で半裸になってしまう!


それはさすがにインドでも避けたい。


これ、授業だし。女子いるし。










なのでこれ以上脱げたらヤバいので

バスの移動時間では極力動かないように(シャツがやぶけないようにして




バスが止まったときに運転手さんに言って

トランクから着替えを出してこっそり着替えました。





ふ~あぶなかったぁ。





















さて、インドでは毎日がカレー曜日で

わたし達の士気はどんどん削がれていきました。




インド人は絶対何かの栄養が足りてないに違いないと思いました。

本当にこの国は毎日カレーを食べているのです。

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日本人が毎日白米を食べているのと同じように。






でも日本はパンとか麺とかも食べるじゃないですか。

なのにこの国の人たちは365日カレー曜日なんですよ。


カンナラ州のレストラン入ったらメニューもなく

カレーが出たんですよ。






選択肢が無いんです。レストランに。








まるで早稲田の飲食店「珍味」のようだ・・・

(「珍味」はかつてラーメン屋だったが店に入ると

 オヤジが「茄子?唐揚?」とラーメン以外の定食の二択を迫ってくる)













ゴカックでは床に座って手づかみでカレーを食べるという食生活を味わい、

いつ腹を壊すかと怯える日々を送ったのです。













いつしか私は梅干を食べながら遠い祖国に想いを馳せていました。

「ラーメン食いてぇ」と。



















首都デリーに移動してからは世界遺産を見ることができました。


インドのすごいところはヒンズー、イスラム、キリスト教という

3つの宗教の世界遺産をもっていることです。










まずこれがヒンズー教の塔。

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これがイスラムの塔。

造られた当時は世界一高い建物だったそうな。

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そしてこれがキリスト教の教会。

フランシスコ=ザビエルは日本での布教の後、この地で果てました。

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色々語りたいことはありますが、インドはこのへんで。

読みやすいようにまとめてみた。


ラオス1日目 ~日本出国編~


ラオス2日目 ~ラオス入国編~


ラオス3日目 ~ラオスにおける観光とその問題~


ラオス4日目 ~ラオスのホテル開発~


ラオス5日目 ~ビエンチャンからパクセへ~


ラオス6日目 ~聖地ワットプー~


ラオス7日目 ~ウモン寺からコーン島~


ラオス8日目 ~村のセレモニー~


ラオス9日目 ~ラオスにお別れ~


ラオス10日目 ~バンコクにて~



朝一番の飛行機で今日こそバンコク入り。


空港に着くや、すぐに専用バスでタマサート大学に移動する。

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これがタマサート大学の門。


タマサート大学も国立だが、タイの東大はチュラロンコン大学なので、

タマサートは一橋みたいなものか?

でも歴史、考古学などの学部もあるのでちょっと違う。


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これが校舎。敷地面積がとても広い。


というか、段々広げていったらしい。


そのため大学の敷地内に遺跡が埋まっているそうな。


タマサート大学の副学長の講義を受け、

昼ごはんをご馳走になった後はバンコクを散歩。

やっと土産を買うチャンス。


2時から5時くらいまでタイの市場で土産屋めぐり。


値下げ交渉が面白いほど成功するものだから、

原価はいくらなのかと疑いたくなる。


半分値切っても店が儲かっている気がしてならない。

それだけ日本人は足元を見られている。




夜は伊勢丹バンコク支店で買物。

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ショックだったのは、市場で売っていたものと同じもので

より上質な土産が、同じ値段で売られていたことである。

(しかも値切ったのと同じ値段)



加えてショックだったのが、伊勢丹なのに

トイレに紙がなかったこと。

ここもかよ!




夜は飛行機で眠りながら帰国。

実に今回のツアー参加者の半分近くが腹を壊していた。

今日はいつもより早く出発し、

専用バスでパクセを経由して陸路でタイに入り


ウボンラチャタニの空港からバンコクに入る予定だった。


ほとんど移動の一日である。




途中で立ち寄るパクセの市場がラオスでお土産を買える最後のチャンスだ。


しかしこの市場、それ程目ぼしい物も無く

値切り交渉に時間を食ってしまい

お土産は殆ど買えず終い。


とりあえず、ラオスの携帯入れ、ラオスの民族衣装だけ購入。


ラオス出国手続きを済ませ、タイに入る。



ここでラオスの大学生とはお別れ。

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一人泣いてくれた子がいた。

涙を見ると別れが辛い。


ここからは専用バスでの移動になる。





さあて、これからタイに入って夜はタイスキが食べれるぞ、と思っていたら問題が生じた。












私達一行は飛行機に乗り遅れたのだった。






運転手があまりにもゆっくり運転していたのと、

空港までの道を間違えたことによって

40分で空港に着くはずが、100分以上かかってしまった。





専用バスの中で学生たちは眠りに入り、

教授は必死で空港に電話して交渉していた。



「あと5分で着く!待ってくれ」



私は教授の後ろの席に座っていたので

飛行機に乗れるのか心配で気が気ではなく

眠る心の余裕は無かった。




ただ、必死に電話でやり取りをする教授の後頭部を眺めていた。







空港に10分だけ待ってもらったものの(これってすごいことだよね)


空港に着いた頃にはさすがに飛行機は飛び立ってしまっていた。




仕方なく今日は予定を変更してウボンラチャタニという何も無い町の

ホテルに宿泊することになった。



自由時間が結構あったので、

お土産を買いにホテルを出てうろうろしたが、


…何もない。


本当に何もない。


床屋くらいしかない。



どうやらこの街は観光客にとって本当に何もない街だった…。



今日でチャンパサックも最後。



現地の村で調査(フィールドワーク)を行った後、

村のセレモニーに招待された。


今日は村のお祭りらしい。


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料理を作っているところ。




村のセレモニーは変わっている。

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派手な生け花の茎に太い紐を垂らし

生け花を囲ってお祈りをした後、

相手の幸せを祈りながらお互いの手に紐を結び合う。







次に料理が出てきたのだが、

これがまた・・・。


肉が殆ど無い半生焼き鳥

鶏のひき肉アリ入りスープ鶏の血スープ


ちょっと食べてみたものの、やはり不味い!

お世辞にも美味いとは言えない味だった。


しかし、ラオスの人にしてみればきっとご馳走なのだろう。


手を付けないのは失礼だ。


なので、ひたすら米を食べて、

村人に勧められるままに酒を飲んでいた。


村人が次々に勧めてくる酒はラオラオという現地の焼酎だ。


このラオラオというのが高アルコール度数で、とんでもない味がする。

何か、ガソリンが入っているとか…いないとか…。


戦後の日本で出回った「バクダン」のようなものらしい。

ロシア人がラオラオを飲みまくって3日間倒れたという逸話があるくらいだ。


一体、アルコール度数はいかほどなのか?




夜は逆に私達の側が現地の村人にお返しの意味で

セレモニーを開いた。

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お返しもやっぱコレ。




ここでも現地の人にラオラオを飲ませられ、

大学生2人が酔い倒れた。


とくに一人はその場で寝込んでしまい、

運ぼうとすると暴れるので厄介だった。

運ぼうとした一人が顔を殴られ口を切った。




エンドレスでラオスの大学生たちは踊っていた。

くそ!ラオス人も飲めよ!

今日はメコン川を渡りウモン寺へ。

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この巨大イカダ船に車を乗せて出発する。



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船の出航は手動作業だ。

実は船にトラックとか車がわんさか載っているわけで、

このおっさん、ものすごい力持ちなのだ。



メコン川は焦げ茶色をしていて、とてもじゃないが奇麗とは言えない。

これは周辺の土が赤土なのもあるが、

メコン川の源流がチベットであり、中国、ベトナムを経て流れてくるため

下流のラオスに流れる頃には川本来の自浄能力を超えて汚染されてしまっているからだ。

それ程、中国とベトナムの産業が発達してしまったことを物語っている。



船の上で、水面を指差して

ラオスの人に「Is this メコンリバー?」と尋ねたら

「NO! This is メコンライバー」と言われた。


発音なのか!?




さて。ウモン寺のある陸に着いた。
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船から下りる車。




ウモン寺への道のり。

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現在は観光客に知られることも無く

木々に囲まれてジメジメしているためにヒルが多い。


ヒルは木の上に棲み、人間が通ると体温を察知して落ちてくる。

さらに地面から這い上がって来て血を吸う。

血を吸われても痛みや痒みが無いので気づかない。結構厄介だ。


吸い付いたら離れないが、ヒルはニコチンが嫌いなので

タバコをすり潰して近づけると逃げていく。


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ウモン寺はアンコール時代、船着場だった。

ワットプーに巡礼に来る人たちが休憩し宿泊する施設として

または、航海の目印としてこの寺があったと言われている。




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こんな石象も。

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今では自然の一部となっている。






ウモン寺を見た後はボートでメコン川を渡り、コーン島へ。

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ここで注意すべきは、川に手を突っ込んではいけないということだ。



川には日本住血吸虫という非常に厄介な生物が生息している。

現地人には免疫があるが、日本人にとっては非常に危険。


日本住血吸虫は、琵琶湖など日本で発見されたためにその名前がついた寄生虫だ。

体長1cm程で、皮膚を食い破って体内に侵入し、肝臓に寄生して死に至らしめる。


私達日本人がびくびくしている一方でラオス人は川に手を突っ込みはしゃいでいた。




水におびえながらも
コーン島に着く。

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この島はフランスの植民地時代にリゾート地だった。


なので、今は使われてはいないがラオスで唯一鉄道と汽車がある。

フランスが作ったものだ。


コーン島の人々は何百年も変わらない昔ながらの暮らしをしていた。

人々は鶏や牛を飼い、畑を耕す。

時間に追われることはないが、小さな子どもにも仕事がある。

電気が通っていない家が殆どだが、電気は彼らには必要ない。


永遠という言葉が「普遍」を意味するとしたら、

この土地にこそ、永遠があるのではないだろうか。







夜はチャンパサックの寺院に僧侶の話を聞きに行った。

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寺は電力が相当余っているらしく、

電球などの装飾が派手で、歌舞伎町のようにピカピカしている。


寺院内の設備も充実しており、とても住民の寄付で成り立っているとは思えない。

茣蓙の上に座ってお経を聞き、その後僧侶の歓迎をうけた。


夜遅くにゲストハウスに着き、就寝。

ゲストハウスから乗用車でワットプー寺院へ向かう。


ワットプーは聖地カオ山のふもとに造られた寺院だ。

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カオ山は雲におおわれていて何だか神々しい。



チャンパサックのワットプー関連遺跡群は2001年、世界遺産に登録された。


チャンパサックはアンコールワットを造ったカンボジアのクメール王国発祥の地であり、

クメール人たちはカオ山を世界の中心と考え、足繁く巡礼に来た。





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ワットプーへ続く古代の道は遙かカンボジアから延びている。


両端に立っている柱はリンガといい、男根をあらわしているそうだ。


リンガはヒンドゥー教のシヴァ神を象徴している。


寺院周辺にはそこいら中に仏像などの遺品が転がっていたが、

2003年に博物館ができて、そこで保管されるようになった。



ワットプーには11世紀、つまりアンコール朝時代の建造物と

それよりはるか以前の建造物が見つかっている。


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前者はアンコール朝の技術者がワットプーの地域に技術を伝え

現地の人間たちが現地の資材を用いて自分たちで造ったと考えられている。


後者はどういった人々が、いつの時代に造ったのか判明していない。



少なくともワットプーはクメール王国が誕生した9世紀よりも


はるか昔に造られたものであると考えられている。


ワットプーは山の斜面を切り開いて造ったものだ。


山の斜面を切り開いたおんはクメール人の技術であり、

クメール人は非常に賢かった。


山から流れてくる水を逃がす水路を造り

川に水を流すようにした。


しかし、後世の人々はその技術を忘れてしまったために

水路は泥にうまり、山は土砂崩れが起こりワットプーは土に埋まっていった。




ワットプー寺院跡に入ると、現在も花が絶えることなく備えてある。

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現地の村人が毎日のように花を供えに来るのだ。


村人にとっての遺跡は過去に死んだものではなく

現在も信仰の対象として機能しているものといえる。



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ワットプーの本殿にたどり着くまでには幾重もの急な石段を上らなければならない。





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ここがワットプーの本殿。当時は選ばれた人間しか立ち入ることが出来なかった。







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本殿の中には現在、仏像が祀られている。





中国の歴史書によると、聖地カオ山は1000人の兵士が守っており、

毎年、神がこの地の王に人身御供を捧げるように啓示したらしい。








ワットプーにはワニ(トカゲ)の形に切り抜かれた石がある。

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現地の伝承では、この石に人身御供を入れたのではないかと言われている。








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精巧な象の彫刻もある。何だか鬼気迫った象だ。



クメール時代以前にこのような巨石を動かし、

削る技術を持っていた民族がいた。



しかし、それがどんな民族で、

どんな文明を持っていたのか、現在は謎のまま。





ワットプー寺院の一番高いところまで登ると、辺りの景色が一望できる。

ワットプーからメコン川、さらにベトナム国境のボリベンプラトー山脈。

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実はここから見える景色、400平方キロメートルが全て世界遺産だ。


世界遺産に登録されたために、

この地域一帯は景観を崩さないよう地上7m以上の建物を建てることができない。








ワットプー周辺を歩いていたら、いきなり大雨に襲われる。


ラオスは現在雨季のために天候が崩れやすい。

急いで乗用車に駆け込む。






その後、周辺の村に入ってフィールドワーク。


村の民家には電気が通ってないのに、テレビがある。

テレビは村人にとって一種のステータスシンボルなのだ。

村人はテレビを得意げに部屋の真ん中にどかっと置き、

「どうだっ。ウチにはテレビがあるんだぜぇ」という思いで

大切そうにホコリがかからないようにする。


日本人が何百万円もする壺を飾るのと同じ感覚だ。


電気は通っていないが、バッテリービジネスというものがある。


特別な日にはバッテリーを借りてテレビを見たりする。






夜はゲストハウスに戻って夕食。

相部屋の二人が将棋を指す一方、私は読書をしつつ寝た。

早朝、専用バスでビエンチャンの空港へ。


国内線でパクセに飛ぶ。

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ラオスの国内便は、これまでロシア(ソ連?)製の中古品で

常に風もないのにガタガタゆれていたが、

ついに昨年、墜落した。





現在はフランス製。







ガタガタ揺られながら

一時間ほどでパクセの国際空港に着く。

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パクセの空港は名目上は国際空港だが、

入国管理間が常に不在のためまだ国際空港とは言えない。


しかも空港は何から何まで日本の力で作られており、


さすがにすべておんぶ抱っこではラオスの為にならんということで、


日本は唯一、荷物が流れてくるベルトコンベアだけ作らなかった。



しかしラオスは3年たっても一向にベルトコンベアを作ろうとせず


何かと理由をつけて日本に作らせようとしている。


そのため、旅客は自力で荷物を運ばなくてはいけない。


ラオス人は何というか努力が足りない。




到着後、パクセ州チャンパサック県の文化情報省に訪問。


チャンパサックは世界遺産に登録されており、ラオスの観光開発にとって

非常に重要な土地である。


ここで情報文化省のチャンパサック観光開発ディレクターの説明を聞く。


ローカルテレビが来ていたので撮影をくらった。




次はラオス国立大学のパクセ分校を見学。

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日本の農業高校のようだった。

牛とか鶏とか、たくさん。



昼食をとり、パクセのマーケットで生活必需品を買う。

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私達の班は全員分のトイレットペーパー、洗剤、ティシュを買うのが任務。


これが中々売り場を見つけるのが困難で予定の40分を過ぎてやっと買えた。


それほどまでにマーケット全体が広いのだ。


しかも意外に値切れない。


値切ろうとすると、「うちはチェーン店だから値切れないんだ」と言ってくる。






そんなわけないじゃろが!








さて。次にチャンパサック郡へ移動する。


ここで生活必需品を買ったのは、今晩から泊まるのはホテルではなく

水や紙、洗剤など生活必需品を自分で用意しなければならないゲストハウスだからである。




夜は青年海外協力隊の2人を招いての夕食。




その後、ゲストハウスに到着。


さすがに今までのホテルとは違って、

トイレニ紙は無く、自力で水をすくって流すというタイプで

シャワーも水しか出ない。浴槽も無い。


天井にはヤモリ。

床にはアリ。

どこからともなく痩せた犬も入ってくる。



私は男子学生3人と相部屋だった。

他の学生を交えてトランプの「大富豪」をして夜は更けた。


ホテルで朝食を済ませてからラオス大学の生徒たちと合流し


山の上のリゾート地「ダンサバーンホテル」へ向かう。


ダンサバーンとは「天国」という意味だ。


外資によるホテル開発の問題を実地調査するわけだ。



ダンサバーンホテルは非常に景観の良いところに立てられたホテルで、

カジノやボート、カラオケ、ディスコなどの設備がある。

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ラオスはギャンブル禁止の国だが、ここでは許可されている。

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なぜなら、旅行客のギャンブラーが大量のお金を落として行ってくれるからだ。


ラオス大学の学生も、まさか自分の国にこんなところがあるのかと少し驚いていた。



昼はダンサバーンホテルで朝食をとり、

その後はラオスで活動している日本人NGO「IV‐JAPAN」のオフィスを訪問。


ビエンチャンなどで職業訓練を行っている団体だ。


ラオス人で学校教育を受けられなかった若者を対象に、

織物や散髪の技術訓練をし、起業を促している。


学生の何人かが、ここで髪を切ってもらう。



ラオスの町を歩いていると思うのだが、

本当にみんな暇なのか、まともに働いている人を見かけない。


というか、店が少ないし、

店も客が少ない。

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なぜかボクシングしてる若者。

すごく暇そうだ!


働け!





夜は再びホテルラオに戻る。


相部屋の男子学生と「UNO」をして夜は更ける。

ホテルラオで朝食をとり、ラオス観光局を訪問。


ここでラオスにおける観光の状況について説明される。

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ラオスの観光局は1989年に開設された。


観光局の目的は観光の整備とインフラの整備を結びつけることだ。


政府の今後の目標は、ASEAN加盟国ではビザ無しで入れるようにし、

貿易の振興、外貨の獲得をすることである。


ラオスの観光客は年々増加しており、観光開発が進んでいる。


特に気を遣っていることは固有の文化を失わないようにすること、

売春などの夜の仕事を規制することだ。



次に向かった先はASEAN外相会議で使用されたリゾート「ドンチャンパレス」

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ドンチャンは「ドンチャン騒ぎ」ではなく、中洲の島という意味。


ドンチャンパレスはラオスに6つある五つ星ホテルのひとつだ。


来年にはホテルの隣にショッピングセンターをつくり、

ラオス各地の名産品を売るらしい。


これは日本の大分県から始まった一村一品政策をヒントにしているそうだ。

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ここがセレモニーホール。

ラオスの人は所得の何十倍ものお金を結婚式に使うらしい。



一方でドンチャンパレスのようなリゾート開発には問題がある。

というのは、このホテルの出資は100%マレーシアからで、

工事を請け負ったのは中国の企業で、労働力も中国人。



つまり甘い汁を吸っているのはマレーシア、中国であり、

ラオスはそういった国の食い物にされていることになる。


政府はこの問題に気づいていない。

ホテルが建てば観光客が来ると思って、

どんどん外資によるホテル建設を推進している。




昼はホテルの近くにあるレストランで食事。

小渕首相、小泉首相も食べにきたと言うレストランらしい。

写真はナイ。





次に向かったのは、在ラオス日本国大使館。

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大使が休暇中だったので代理で公使が来てくれた。

公使の子息は早大に在学中らしい。


公使は日本政府側の「開発」とラオス川の「開発」の考え方の違いについて説明してくれた。


ついでに公使は「ラオスの蚊は危険だ。昼はテング熱、夜はマラリアになる」と脅してきた。






夜は再びホテルに戻り、夕食を食べた後、インターネットスペースへ。



海外に来てまでインターネットスペースに篭るとは何て後ろ向きなのだろう。

でも、結構日本人がいるんだな、これが。